久呂保窯
〒371-0105
群馬県勢多郡富士見村石井1138-3
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続・「金継ぎ」について
以前「金継ぎ」のことを書きましたが、「金継ぎ」というのは古い名品に施すものだと思っていたのに、自作に施してしまいました。何となく「私の成長は止まりました」と認めるようで抵抗もあったのですが、継いで貰いました。今年の蛇窯に鳳凰耳付花生を8本程入れたのですが、また全滅で、溶けすぎて匣にベッタリ貼りついたもの、焼きが甘かったからガス窯で焼直してみたら、円形脱毛症みたいに水玉模様に釉のちぢれたもの、そして一方からのみ炎があたることで、轆轤のときのねじれが戻る時に、素地がねじ切れてしまったもの、といった具合で去年同様一点もとれず、去年と同じ失敗をする自身のあら探しに2ヶ月程も無駄に費やしてしまいましたが、処分する品物の山にのせておいた、ねじ切れてしまったものの一つが、キズ物とはいえ、その釉調の高さ故、捨てる能はず。友人の漆芸家の千葉さんに継いで貰いました。青瓷と金の組合せの何と美しいことか。完璧であらねばならぬ筈の青瓷なのに、ヒビ割れの入ったものを繕って、そこに完品以上の美しさを感じてしまうのは、私が単に自分に甘いだけでしょうか。
さかのぼって、日本的美意識にどっぷり浸かっている私が何故シンメトリックな、玉石のような青瓷を美しいと感じるのか、ということの方が不思議なのかもしれません。自分で購入したいと思うのは美濃や唐津くらいで、現代の青瓷を欲しいと思ったことはありません。宋代の青瓷は買えないから、自分で焼こうとでも単純に思ったのでしょうかねえ。あまりに高い所に見当つけてしまったので、しばしば徒労感に苛まれます。そういえば、今不意に思い出しましたが、幼時に宝石屋のチラシからオパールだけを切り抜いていましたっけ。青瓷やラリックに魅かれる性質と何か関わりがあるかもしれません。よく判らないけど。それにしても青瓷か。青瓷とは、私の青瓷とは・・・。
雨戸たたいて、もし酒屋さん、無理言はぬ酒ちょうだいな。
無理は問ふまい、45歳に内容を求む勿れ。只熱さのみ。
スミマセン。大して熱くもないか
常盤山文庫
常盤山文庫というのをご存知ですか。菅原通済さんという方のコレクションだそうで、半世紀以上前からあるらしい。そして、一昨年前から中国陶磁研究の親分格である長谷部楽爾先生を代表に、中国陶磁研究会というのをやっているのだそうです。
日本経済新聞にで7月に「青磁の秘密」という特集が組まれ、いつもそうですが日経の文化欄は素晴らしく、その冒頭に常盤山文庫から今年出版された「米色青磁」という本が紹介されていました。その中に「この淡黄褐色は陶工が狙って焼き上げたかもしれないのだ」という一文があり、ちょっと待てよ、何だいそれは、と思ったのです。20年以上青磁と関わり、意図的に米色瓷も焼いてきたくせに、南宋の陶工が意図的に焼いたと考えたことはまるでなかった。
どうしてもその本が読みたくなり、ある学芸員の方に伺うと常盤山文庫は研究する場であり、営利を目的としていないので、その本は売っていない、というお話。他の焼物でも、他の工芸でも、美術でも、科学でも、古典を学んだ上にのみ現代が成り立つのでしょうが、青瓷も例外でなく、古典を学び写してからでなければ始まりません。私はその「米色青磁」を読まなければいけないので、もがいていたら、運良く縁付いてくれました。
ここでその内容を紹介すると私というフィルターを通して、間違った内容になるし、それより人の研究を汚してしまう気がするので、それには触れませんが、文章に熱があってとても報告書とは思えませんでした。勿論、中国陶磁がお好きで、この道の研究者になられたのでしょうが、米色青磁の謎を一枚ずつ引き剥がしていく作業に取りつかれているようで、それが行間ににじみ出ていて、こっちまで熱くなりました。やはり、衝き動かされた行動が美しいですね。或る登山家が「登山の価値はその動機にある」と語っていたそうですが、何でもそうですね。動機の粋は内的衝動ということになりましょうか。己の慾望に正直に生きるのではなく、己の誠に正直でありたいものです。
蛇窯の窯焚き
平成20年6月24日の朝8時半に蛇窯に火を入れました。南蛮焼締を焼くときは、窯全部をいっぱいにするので6泊7日の焼成になりますが、青瓷の時は窯の半分なので3泊4日、75時間ほどの窯焼きでした。窯詰めは1週間、窯出しは1日です。
青瓷は厘鉢(サヤ)に入れて焼くので、品数があまり入りません。今回は1列目に花生を中心に20点弱。2、3、4列目は、酒器や茶器などの小物をそれぞれ50余点。青瓷200余点の後ろに耐火度の低い粉引と焼締を。こちらはわずか1列でもサヤなしなので、それぞれ100点余りの計500点ほどでしょうか。
窯にはゼーゲル錘といって、釉薬の溶け具合を示すコーンとパイロメーター(熱電対)を入れてあります。薪窯の経験がまだ浅い私は、窯の音や炎の色、焚口を開けた時の皮膚の感覚だけでは焼けません。勿論、数字と感覚が食い違った時には、後者が優先されます。うちのガス窯の青瓷は1240℃前後で、京都ゼーゲルの11番(東京ゼーゲルだと9番位?)が倒れてから1時間前後、1280℃以内で止めますが、蛇窯だと1150℃±15℃でゼーゲルが倒れます。そこをそれ以上あげないように後ろを上げるのが、なかなか骨が折れるのです。
この窯は横から見て棚板2枚を1区画として、それぞれの前に横焚きの穴があります(反対側にも)。そして、各区画の中程にパイロメーターの穴があります。したがって、1150℃を示しているパイロメーターの前に1列あり、そこにもゼーゲルがあります。そのゼーゲルの方が正しい溶け具合を示しているのにパイロメーターを差しているのは、煙突の煙の見えない夜間でも薪投入のタイミングが判って便利なのです。日頃「あったら便利は、無い方が良い」と嘯いてるいる割に、窯焚きの勘には自身がない。かつての「窯は窯師、轆轤は轆轤師」という専門家集団の分業制と違い、個人で全てをやるには、伝統と科学の振幅をなるべく大きくとりたい。その上で則天去私の境地を目指したい。何しろ相手は中国(宋)皇帝という世界一のパトロンを持つ官窯だ。日本も国家プロジェクトとして人類最高の美を目指そうとするなら、私から税金をとっている場合じゃないだろう。
轆轤をひく時も、削る時も今の自分の最高点の姿だけを残し、これでもか、というほどきめ細かな釉がけをし、これまでのデータから窯詰めも練り上げ、これで良い物の焼けない筈がないと思って始めた窯焚きが、わずか42時間、1140℃でゼーゲル@左右完倒という事態に俄然、暗雲が立ち込める。うろたえて数時間無駄な横焚きをしてしまった。これまで何度も@を抑えて、Aを上げるのに50時間もかかったことがあり、窯そのものが焼けてくると@〜B位は温度を揃えられることもあるので、ここで気持ちを切り換えて長期戦の覚悟をする。しかし、30時間以上、思いつくことは全てやっても@、Aの揃う気配はなく、@のゼーゲルは完倒を過ぎて溶けきってしまった。これで@は半分以上溶けすぎ、@の2列目で何点か取れるだろう。Aは殆ど溶けてないだろうが、焼直しが入っているから、その何点かはとれるだろうと、取らぬ綿貫の皮算用で火をとめました。
<一週間後の窯出し>
Aは、やはり殆ど素焼状態。しかも焼直し(ガス窯でしっかり溶けたにも拘らず発色、質感のつまらなかったもの)も表面が生焼けの質感に戻ってしまった。ショベルカーか何かで窯ごと潰してしまいたい衝動と戦いながら@の2列目。まあまあの物に混じっていくつかの、ほんのいくつかの目覚しい品が現れました。これまで見たことのない落ち着いた青瓷。宋代のそれとはまるで違うのですが、それでも現代焼かれたとは思えない物がとれました。この1点に出会うために、これまで生きてきた、と思わせる悪魔がまた現れる。そして1列目。去年同様今年も全滅。わずかに去年より駄目にしたサヤが少なくなりました。薪割から数えて半年近くかけてこれだけかい、と情けなくなります。窯焚きが下手なくせに、しかも薪窯信仰なんて、かけらもないくせに、2列目の数点を思うと、この非効率的なありようの外に真正の美を感じ得ない。2列目の数点は、日本橋の「ギャラリー砂山」さんに展示中です。御高覧下さい。(ギャラリー砂山 TEL.03-3281-1204)
ラーメン屋に行ってみたら・・・
以前から気になっていたラーメン屋があったので行ってみました。珍しく空いていて、すぐに入れて店内を見ると、ちょいとバーを思わせる。店員さんにも同じ雰囲気が漂っている。テーブル席に着き、バーの女給のような人が水を運んでくれる。「あ」、何でい同級生じゃねえか、ということは厨房は、と見るとやはり同級生だ。そうか、ラーメン屋になったのか、とそれだけでもこれまでの修行、そして現にこうして店を持ってからの精進を思っただけで、ズッシリうれしくなった。が、とたんに、でも不味かったらどうしようと心配になった。どうしようったって、不味けりゃ2度と行かないだけのこと。それなのにやはり同級生には高きを目指して欲しいらしい。
私は正油ラーメンの大盛を、家人は白正油ラーメンを選んだ。女給姿の同級生が大盛を出しながら「奥は固めに茹でてありますので、こちらからお召し上がり下さい。」私はグルメではないし、グルメになりたいと願ったこともない。人が作ってくれたものは何でも旨い。けれど不味く作れられたものにビタ一文払いたくない。食いものを不味く調理するのは、生の冒涜だと思っている。世のお母さん方が、味付けに少々失敗したって心の芯が子の健康を願っていれば、不味くはならない。うまくもないだろうけれど。本当に旨い物を作るのなら、いろいろ修行やらセンスやらが必要なのだろうが、本当に不味い物を作るのも、インチキの食材だけを使い、目先の利益だけを追い求め、効率のために機を逃し、レシピだけで容易に真似られる程度の『秘伝のタレ』で完成したと思えるような自我が必要だ。
私には、旨い物の中の上下が判らない。較べる気もない。二十歳代の頃、沢山の酒を並べて飲み較べて、その優劣を判じて興じた時期があるにはあった。けれども今は、作り手の心意気しか感じなくなっている。いつも離陸の角度で生きている人の作ったものは良いもので、『秘伝のタレ』にしがみついている人の作ったものは悪い物。けれど、街中の蕎麦屋などで旨いそばの判らぬ蕎麦屋さんが、旨いそばの判らぬお客相手に身を粉にして働く姿も美しい。身の丈に合った汗が美しい。南宋官窯なんてとんでもない所に見当付けてる私は見苦しい。それでも人間の加工した物ではなく、人間の創った物で最も美しいのは青瓷だ、と思い込んでいるのだから仕方がない。
そのラーメン屋は前橋市の国道17号線に面した「我礫(がれき)」です。これほどクリアなラーメンを私は他に知らない。胸が熱くなった。
「金継ぎ」について
今日は「金継ぎ」のことを友人に訊かれたので、ここに記しておきます。焼物はぶつければ割れます。割れたらゴミにするのが現代人ですが、漆―所謂ジャパン―を以って、それを繕い、そこに新たな美を見出す能力を持っていた日本人の先人はちょいとすごいと思います。ヒビだらけの焼物を国宝にしている国が他にあるでしょうか。朝鮮半島で焼かれた井戸茶碗のキーちゃん(本名は「喜左衛門」)は、口縁部に数ヶ所の繕いが見られますし、これは国宝ではありませんが、同じ井戸茶碗の「十文字」などは、その名の如く、十文字に割れたのを漆で繕ってあります。しかも、嘘か真か、わざと割って継いだという説もあります。どうも犯人は古田織部らしいのですが、カンディンスキーなんざすっこんでろい、という程の抽象性を持つ桃山人ならやりかねないと思います。あの辻が花を思い出して下さい。古典的な文様が唐突に虫や花に侵され、その下地に絞りがあり、出たとこ勝負と人生を観じているような狂躁。その焼物版が呼び継ぎという奴で、曲線や厚みの合うカケラを択んで美しく配列して、漆で継いで金箔をつけるのですが、どれほどの時間を要したことか。どうやら呼び継ぎ師みたいな専門家もいたそうです。
同じ継ぎでも、割れて明に送られてカスガイでとめられて帰ってきた南宋龍泉窯の「馬蝗絆(バコウハン)」になると、あの硬い青瓷にカスガイ用の穴を開けるのです。これもまた大変な時間を要したことでしょう。三代にわたって象牙や玉を彫っていたり、釉薬を擦ったりという国ですから、カスガイぐらいわけないかもしれませんね。
偶然、師匠と会いました。
10月のアユミギャラリーでの会期中、予め約束してあった九段下の「暮らしの器 花田」に行ったら、後ろに師匠が立っていた。「何してんねん」「何してるんですか」と同時に声を発し、お互い自分の個展のハガキを出す。不慣れな行商にカチカチになっていたのが、師匠の姿を見て、急に楽になりました。京都の師匠と東京で偶然会えるとは。おかげで花田さんに注文を頂くことができました。翌朝10時に高島屋に師匠を訪ねると、まだ来ておられない。11時半まで待っても来ないので、自分の会場に帰る。その夕刻、師匠の方から来て下さった。これまでに何点か見て貰ったことはあったけれど、個展会場を見られるのは初めてで、まあその決まりの悪いこと。もともと無口な師匠と六口な弟子なので、批評がましいことは一切言わずに、Gパンのポケットに手をつっこんで昭和22年生まれのヤギヒゲの師は「ホナ、行くわ」と去って行きました。昭和22年生まれということは、私が押しかけ弟子に入った62年で、まだ40歳の若僧だったのですね。よく私のような者を使ってくれたとつくづく思います。私は22歳で流通業界のサラリーマンになり、二ヶ月後には芝居を観るつもりで東京に行って、何故か唐津まで行ってしまい、帰るに金もなく・・・というあたりは次回詳しく述べましょうか。
「乾山の芸術と光琳」と「安宅コレクション」
先日、所用ありて東京へ行ったついでに出光の「乾山の芸術と光琳」と、三井の「安宅コレクション」を観てきたので、それを記す。乾山といえば、京焼の土臭いもの、光悦を目標とした数寄風流の人、装飾の名人、懐石にコピーされる人、といったイメージのみがあり、何の勉強もしなかったことを恥じています。乾山の純日本的な美しさは、唐物、赤毛物、高麗物など様々な物をモティーフにしていたのですね。何の表現でも、勢いというのはスピードではなくて、じっくりと蓄えられた教養の発露なのだ、と思い知らされました。そして、彼は純然たる数寄者ではなく、焼物で身を立てていたのですね。雁金屋の息子として財産もあり、庇護者もあり、自由に三昧境に遊んだ人かと思っていました。商売にしてる割には、いい物を作らせているな、と少しうなりましたが、日本人としての素材観に違和感を残して会場を去りました。
そして「安宅コレクション」ですが、これは言うまでもなく、大阪の東洋陶磁美術館の館蔵品です。京都時代から十数回観ている物たちです。私の世界一美しい青瓷である南宋官窯の八角瓶が久し振りに関東に来ています。国宝の飛青瓷よりはるかに美しいこの八角瓶は、12月16日まで三井(日本橋)に来ていますので、皆さん遠慮なく目垢を付けて下さい。大阪に帰れば自然光で浄められますから。
次の蛇窯では、久し振りに八角瓶を焼くぞ。
行商を終えて
10月10日に神楽坂のアユミギャラリーでの行商を終えて帰ってきました。寒くもないのに薪ストーブにアカシアをくべ、香りを聞き、燗をつけ、1週間のことがいろいろ思い浮かぶのに任せています。まず、昨年いろいろ手伝ってくれたり、沢山話もしたギャラリーのオーナー夫妻の御子息が20歳の若さで亡くなってしまったことが、他人の私にも大きくのしかかってきます。もぎとられた生命について考えずにいられません。生の目的は、生そのものかと思ったあたりで、おぼろげなまま思考は停止しました。生そのものが生の目的であるならば、何故宋代官窯の青瓷を目指すのか。さあて・・・、どうせ人生暇つぶし。団塊の世代と呼ばれる方々が、そばを打ったり、焼き物をしたりという余生を考えておられるそうな。それなら私は20代から余生みたいなものですか。もともと世の中をついでに生きてきたようなものですから。
閑話休題 アユミギャラリーで出会った人たちのことを書こうと思っていたのに、妙なことになってしまいました。流石に「神楽坂の文化発信基地」と通行人が口にするだけあって、オーナーもスタッフもお客さんも真っ当な変人が多くて有難いことと思っております。
お求めになった品物をどんな風に使っているかを写真に撮って持って来て下さった方、着付教室をして下さった江戸っ子、御自身のブログ(っていうんですか)に私を紹介して下さったチェンバリスト。袖振り合うも他生の縁とやら。おいで下さった方々と、そのタイミングを思うとそう感じざるを得ません。
会期中に頂戴したヒラリー・ハーンのBWV1004を聴きつつ、これを記す。
出 会 い ・・・
95年頃、「楢の灰」に出会いました。それも椎茸を採ったあとの「ホダギ」からできた灰でした。早速、この楢の灰で釉薬を作ってみました。「平津長石70:楢灰30」という子供みたいな調合でしたが、焼成してみると、しっとりと乳濁した質感の器が出来上がり、修内司官窯の青瓷の入り口は「ここだ!」と思いました。
実のところ、私は、その数年前から薪ストーブで様々な木を単味で燃やしては純度100%の木灰をとり、それを実験しては、自然の灰釉の美しさに喜んでおりました。
物作りとは、自分の身の回りの物を使って、作れる物だけ作るのが、健全な必然であろうと思っていました。しかし、どうも青瓷はその埒外にあるようです。(今でもそうは思っていますが・・・)長い青瓷の歴史を紐解くと、初期の青瓷は単なる灰釉に過ぎなかったようですが、10世紀頃の北宋になると、そうした「健全さ」よりも「純然たる美」を求めるようなったようです。
私事ではありますが、「土くれ」から「玉(宝石)」を作り出そうなどという錬金術師は健全ではないかもしれません。しかし、人間の創り出した物(自然物の加工に非ず)の中で最も美しいものは「青瓷」だと、私は思います。
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